年金は破綻するのか──「払えない」は起きない、本当の問題は供給と分配にある
「年金はいずれ破綻する」。この一言を、私たちは若いころから何度も聞かされてきました。保険料を払っても、自分が受け取るころには制度が崩れて一円ももらえない。そう身構えている人は少なくないはずです。
ですが、この「破綻」という言葉は、実はまったく別々の事態を一つの袋に詰め込んでいます。国が円建ての給付を支払えなくなること、積立金が底をつくこと、受け取る年金の水準が下がること。この三つは、起こりやすさも意味もまるで違います。それでも「破綻」の一語でひとまとめにされ、区別されないまま不安だけが積み上がっていきます。
円建ての年金給付が「お金が尽きて払えなくなる」事態は起きません。日本政府は自国通貨を発行できるからです。実際に起きるのは、給付の水準が制度のルールに沿って下がり続けること、そしてその目減りの痛みが特定の層へ寄っていくことです。しかもこの「下がり続けるルール」は自然法則ではなく、2004年の制度改正で選ばれた仕組みで、法律を変えれば変えられます。年金問題があるとすれば、それはお金の問題ではありません。将来の実物供給能力の問題と、いまのルールが給付の目減りを誰に負わせているかという分配の問題です。根本にあるのは、経世済民に沿った設計ができるのに、それを選んでいないことです。
円建ての給付が払えなくなる日は来るのか
「払えなくなる」を字義どおりに受け取ると、ある月の年金を、財源が足りないという理由で政府が支払えなくなる事態を指します。これは、次の三つの条件を満たす国では起こりません。政府の債務が自国通貨建てであること、為替を固定で守る約束をしていない変動相場であること、外貨建ての債務に依存していないこと。日本はこの三つをすべて満たします。円で約束された給付は、最終的に円を発行できる主体が背後にいる限り、名目の金額としては必ず支払えます。
ただし、これは「無条件に、いくらでも払える」という話ではありません。名目のお金を用意できることと、そのお金で実際に財やサービスを買えることは別です。給付を際限なく増やせば、モノやサービスの供給が追いつかずインフレになります。名目の給付が予定どおり支払われていても、供給が追いつかず物価が上がれば、高齢者が実際に買える量、つまり実質の給付は目減りします。真の制約は名目の支払い能力ではなく、経済全体の供給能力の側にあり、その土台には徴税や国家の統治能力があります。円を刷れるから何でもできるのではなく、供給が制約だからこそ供給を問うのです。
この区別を曖昧にしてしまうのが、年金特別会計という制度上の財布です。保険料と積立金という特定の財布の残高だけを見れば、「財布が空になれば払えない」という絵になります。ですが政府全体(統合政府)の支払能力は、その一つの財布の残高では決まりません。制度会計上の収支と、円建て給付の名目上の支払能力は、別の階層の話です。

しかも、その財布はそもそも保険料だけで回す設計になっていません※1。国庫負担と積立金の運用収入が、最初から予定に組み込まれています。2024年度の厚生年金では、保険料収入は支出の8割弱にとどまります。「保険料で自立した保険が、保険料だけでは足りなくなって破綻する」という描像は、制度の実際の姿とずれているのです。
この国庫負担を「税財源」と呼ぶと、少し正確さを欠きます。国庫負担は、国民年金法85条で基礎年金給付費の2分の1と法律に定められています※2(2004年改正で3分の1から引き上げられました)。その原資は一般会計からの繰入で、一般会計は税収だけでなく国債発行でも賄われています。消費税に社会保障の使途を示す規定はありますが、一般会計を経由する以上、特定の税収がなければ国庫負担を払えない、という仕組みにはなっていません。だから正確には「税財源」ではなく、統合政府の一般会計からの支出です。国庫負担のこの仕組み自体が、年金は保険料で閉じた保険ではなく、名目の財源制約は偽の問題であることを、裏側から示しています。
なお、この記事で使う図表はすべて2024年の財政検証と令和5年推計人口に基づいており、2025年の制度改正は反映していません※3。改正後の姿ではなく、2024年時点の基準線として読んでください。
財政検証は何を突きつけているのか
「払えなくなる事態は起きない」と言うと、では財政検証が突きつける厳しい数字は何なのか、という反問が返ってきます。あの数字は、経世済民に沿っているとは言えない現行ルールの帰結を、機械的に並べたものです。数字そのものに、未来の事実としての意味はありません。それでも中身を押さえておくのは、相手の土俵を知らないままでは、この反問に答えられないからです。財政検証は、100年先を言い当てる予測ではありません。現行のルールを所与に置いたうえで、経済と人口の前提を仮に固定したら年金財政がどう推移するかを描く、条件付きの投影です。
だから、100年先の一点の数字、たとえば過去30年投影ケースの所得代替率50.4%を、そのまま当たる予想として受け取るのは誤りです。賃金上昇率、出生率、積立金の運用利回りといった前提は、過去の検証でも実績とずれてきました。前提が動けば、結果の数字も動きます。とりわけ運用利回りは読みにくい部分です。積立金の大半は年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が、国内債券・外国債券・国内株式・外国株式へおおむね4分の1ずつ分散して運用しており、その配分は公開されています※4。運用収入は内外の市場次第で、日本の経済成長と機械的に連動するわけではありません。
それでも、この試算には読む価値があります。数字の当否ではなく、機構を示しているからです。2004年の制度改正で、保険料の水準はあらかじめ上限を決めて固定され、そのうえで収支の帳尻が合う見通しが立つまで給付水準を自動で下げ続ける仕組みが、法律に組み込まれました。前提を変えれば数字は動きますが、この機構そのものは、法律を変えない限り動きません。読むべきは、揺れ動く点の数字ではなく、動かない機構のほうです。
その機構の中心が、マクロ経済スライドです。毎年の年金額の改定を、賃金や物価の伸びより一定幅だけ低く抑えることで、年金の実質的な水準を少しずつ切り下げていきます。2004年改正で導入されました。ここで下がるのは所得代替率という指標で、その時点の現役男子の平均手取り収入に対する、モデル世帯の年金額の比率を指します。つまり現役の生活水準に対する相対値です。名目の年金額そのものが増えていても、現役の賃金の伸びに追いつかなければ、所得代替率は下がります。これは物価インフレで買える量が目減りする話とは、軸が別です。前者は現役との相対、後者は購買力の絶対です。

モデル世帯の所得代替率は、足元の2024年度で61.2%です。これが最終的に、高成長実現ケースで56.9%、成長型経済移行・継続ケースで57.6%、過去30年投影ケースで50.4%まで下がります。この「下がる」は、試算が給付を増やす改定を見落としているという意味ではありません。試算はそもそも、収支が均衡する見通しが立つまで給付水準を下げ続ける、という前提のうえで組まれています。低下は計算の結果ではなく、出発点に置かれたルールです。
高成長実現と成長型のケースで、代替率が2040年ごろから横ばいに転じるのも、このルールの現れです。財政の均衡が見通せた時点で、マクロ経済スライドによる調整を終了する決まりになっているためです(高成長は2039年度、成長型は2037年度で調整終了)。調整が終われば、以後の年金は賃金とおおむね同じ率で改定されるので、現役との相対である代替率は一定になります。過去30年投影のように経済が弱いケースほど、均衡までに長く調整が続き、下げ幅も大きくなります。

積立金の減り方も、同じ設計から出てきます。財政検証は「おおむね100年後に給付費1年分の積立金を残す」という有限均衡方式をとっており、積立金はその設計に沿って増減します。もっとも厳しい過去30年投影ケースでも、2120年度に21兆円(給付1年分)を残して収束する形です。積立金が細っていくのは破綻の兆候ではなく、あらかじめそう設計されたルールの帰結です。そして、保険料の固定も、給付の自動調整も、100年均衡という区切りも、すべて2004年改正で選ばれたものです。「これ以上は保険料を上げない、その代わり帳尻は給付の側で合わせる」という政治的な選択であって、動かせない自然法則ではありません。
参考までに、機械的な調整を続けた1人当たりゼロ成長ケースでは、国民年金の積立金が2059年度になくなって完全賦課方式へ移行し、その後に保険料と国庫負担で賄える給付水準は所得代替率33〜37%程度とされます※5。もっとも悲観的な参考試算ですら、描かれているのは「支払いが止まる」ではなく「賄える水準まで給付が下がる」です。
財政検証を「誠実」と呼べるとすれば、それは現行ルールの帰結を隠さず示している、という限定した意味においてです。財政検証が答えているのは「現行ルールで帳尻が合うか」であって、「帳尻が合う=老後の生活が守られる」ではありません。名目の帳尻合わせに視野を限れば、制度は破綻せず持続するという結論は正しく見えます。しかし視野を経世済民に広げると、下がっていく給付水準の実質と、その痛みを誰が負うのかという問いが前面に出ます。実際、この調整は誰にでも同じ深さで効くのではなく、すでに基礎年金の側へ片寄って進んでいます。守るべきものを守る設計になっているかどうかは、帳尻が合うかどうかとは別の問題です。
「現役世代が高齢者を支えている」は正しいのか
年金をめぐるもう一つの通念が、「現役世代が保険料で高齢者を支えている」という説明です。この言葉を聞いて頭に浮かぶのは、たいてい一つの絵です。自分の給料から天引きされた保険料が、そのまま高齢者の口座へ振り込まれていく、お金の流れの絵です。支えるとはお金を仕送りすることだ、と受け取るのが自然で、そこに実物の話を思い浮かべる人はまずいません。ですが、この言葉にはお金の面と実物の面という二つの読み方があって、本当に重いのは、連想すらされない実物の面のほうです。
まず、頭に浮かぶお金の面から確かめます。この面では、「支えている」は制度の見た目をなぞっているだけです。統合政府の視点で見れば、租税や保険料の徴収が政府の円建て支出を物理的に賄っているわけではありません(税は財源ではない)。現役の保険料をいったん集めてから高齢者へ渡している、という資金循環の外形はあっても、その外形が支払いの可否を決めているのではありません。仕送りの絵は、制度のかたちであって、支払いの根拠ではないのです。
実物の面に移すと、「支えている」は別の意味で正しくなります。少し立ち止まって考えてみます。2050年の高齢者が食べるお米は、2050年に誰かが田を耕し、その年に収穫するしかありません。その人が受ける介護も、2050年に働いている介護士が、その場で担うしかありません。今日の私たちが納めた保険料を、2050年のお米や介護に姿を変えて倉庫にしまっておくことは、どうやってもできません。高齢者が消費する財やサービスは、その時々の経済がその時々に生産するしかありません。この一点は動かせません。
この事実は、賦課方式でも積立方式でも変わりません。年金を積立方式に切り替え、金融資産をいくら積み上げても、将来の医師や介護士やお米そのものを前もって用意しておけるわけではありません。積立金は、将来の生産物を買う権利を蓄えるだけで、生産そのものは肩代わりしません。積立方式への転換は、将来時点で誰かが実物を生産する必要をなくしてはくれません。だから、お金をどう積むかという話の下には、いつも「そのとき、誰が作るのか」という実物の問いが隠れています。現役世代が支えているのは、お金というより、この生産の担い手のことなのです。

だとすれば、問うべきは「支え手が何人いるか」です。ところが、その数え方で絵が変わります。65歳以上1人を15〜64歳人口で数えると、2020年の2.08人から2070年には1.35人へ落ちます※6。一方、実際に働いている就業者で数えると、1970年の6.9人から2000年の2.9人まで急落したあと、2015年の1.9人から2025年の1.9人まで、この10年ほどは下げ止まっています※7。女性と高齢者の就業が広がり、生産年齢人口の減少を相殺してきたからです。将来の支え手の数は、年齢構成という動かせない所与ではなく、就業率と生産性という政策で動かせる変数で決まります。
将来世代へ引き継がれるのは何か
「将来世代へツケを回す」という言い方も、何が引き継がれるのかを取り違えています。よく持ち出される政府債務残高は、その裏側で誰かの金融資産になっています。政府の赤字は、民間部門の黒字として積み上がっています(部門別収支30年史)。国債は、それを保有する国民や企業や日本銀行にとって、世代を問わず資産です。「将来世代が返済のために背負う荷物」という言い方は、いつか償還と利払いを税で回収しなければならない、という前提に立っています。ですが、自国通貨を発行できる政府にとって、その前提こそが誤りです。実際に残るのは、利払いや償還の受け取りが誰へ向かうのかという分配の論点であって、世代全体でかぶる負担ではありません。
将来世代が本当に使えるのは、その時点の供給能力、人的資本、社会資本、そして制度です。橋も、工場も、医療の担い手も、教育で育った技能も、すべてその時点に存在していなければ使えません。本当のツケがあるとすれば、それは債務残高の大きさではなく、デフレ下で供給能力と人への投資を絞り続け、将来の生産の土台を細らせたことです。よく語られる五つの主張を並べると、どれも単独では「ツケ」を測れないことがわかります。
| よく言われる主張 | そのままでは足りない理由 | 本当に確認すべきもの |
|---|---|---|
| 政府債務が残る | 政府債務は民間側の金融資産でもあり、実物資源ではない | 保有主体、利払い、インフレ、税制、供給能力 |
| 積立金が減る | 制度上の調整を示すが、国全体の実物供給を直接示さない | 給付ルール、国庫負担、就業者、生産性 |
| 高齢化率が上がる | 年齢だけでは生産・扶養の能力は決まらない | 就業率、生産性、健康、労働時間 |
| 保険料が上がる | 世代間だけでなく、同じ世代の中の所得分配も伴う | 所得階級別の負担、企業負担、税負担 |
| 将来給付が減る | 財政破綻ではなく、制度上の分配変更である場合がある | 所得代替率、低年金層、物価・賃金連動 |
表の一行目を、その場で読み下してみます。政府債務が残ることは、たしかに事実です。ですがその国債は、同じ額だけ民間の側の資産として残ります。だから将来世代にとって問題になるのは、残高そのものの大きさではなく、その利払いが誰へ流れ、そのときの物価や供給がどうなっているか、という中身のほうです。残高の数字だけを見て「これだけのツケ」と読むのは、資産の側を見落とした片手落ちの勘定になります。
残りの四行も、同じように一つずつ解体できます。積立金、高齢化率、保険料、将来給付のどれもが「そのままではツケを測れない」という共通の弱点を抱えていて、それぞれが独立した一本の記事に値する主題です。ここでは深入りせず、確認すべき先がいずれも供給能力と分配へ伸びていることだけを、押さえておきます。
本当の年金問題はどこにあるのか
給付水準が下がること自体は、財政検証が正直に示すとおりです。問題は、その下げ方が均等ではないことにあります。

年金は、賃金に比例する報酬比例部分と、加入すれば誰にでも同じ額が出る基礎年金部分に分かれます。報酬比例部分の給付水準調整は2025年度までにほぼ終わっており、今後の目減りは基礎年金部分に集中します。過去30年投影ケースでは、基礎年金部分の所得代替率だけが36.2%から25.5%へ、およそ3割下がります。
これが誰に効くかが核心です。基礎年金への依存度が高いのは、賃金の低い層、非正規で働いてきた層、加入期間の短い層です。報酬比例で厚みを積める人ほど痛みは小さく、基礎年金しか頼れない人ほど痛みは大きくなります。「平均的なモデル世帯では所得代替率50%を維持」という見出しの裏で、調整の重みは最も弱い立場の受給者へ寄っていきます。そもそも所得代替率はモデル世帯を映す指標であり、全受給者の生活水準を代表しません。平均が保たれることと、底が守られることは違います。
ここで、これまで積み上げてきた話がつながります。給付水準の低下は「財源が足りないから仕方なく下げている」ように語られがちです。ですが、円建ての給付に名目の財源制約がない以上、この「仕方なく」は成り立ちません。基礎年金の底が下がっていくのは、財政上そうするしかないからではなく、保険料を上げず帳尻を給付で合わせるという2004年のルールを選び、そのまま続けているからです。基礎年金の底を守ることは、財政的には可能です。それをしないのは、財政の限界ではなく政治的な選択です。
だからMMTの視点から本物の年金問題を名指しすれば、それは世代と世代の対立ではありません。同じ高齢者のなかで、制度の調整が低年金層へ集中していく、世代内・制度内の分配問題です。しかもその調整は、避けられない必然ではなく、選ばれた分配です。MMTの視点とは、名目の財源ではなくインフレと実物供給という真の制約に照らして、この給付削減が本当に必要なのかを問い直すことにほかなりません。現役対高齢者という構図は、この問い直しの余地ごと、分配の実相を覆い隠してしまいます。
医療・介護は年金と同じ「お金の問題」なのか
年金と並べて語られやすいのが医療・介護費ですが、供給の面から見ると重さが違います。年金給付は、主に購買力を高齢者へ移す仕組みです。受け取った人がそのお金で何を買うかは自由で、給付そのものが特定の実物資源を名指しで必要とするわけではありません。
医療・介護は、購買力の移転に加えて、医師、看護師、介護人材、病床、薬という用途の決まった実物資源を直接に必要とします。お金を配っても、担い手や設備がなければサービスは供給できません。だから供給能力の制約は、年金よりもむしろ医療・介護の側で重くのしかかります。ここでは方向を示すにとどめ、必要な人員や病床の数量分析は別記事の主題として境界を引いておきます。年金と同じ「お金の問題」に還元すると、この実物制約を見落とします。
存在しない年金問題、存在する年金問題
年金をめぐる不安のうち、存在しないものと存在するものは、はっきり分かれます。
存在しないのは、円建て給付の名目上の支払不能です。自国通貨建て・変動相場・外貨建て債務なしという条件を満たす日本では、給付が財源不足で止まる事態は起きません。「破綻して一円ももらえない」という不安は、この条件のもとでは根拠を持ちません。
存在するのは、三つです。そのどれも、解決できない宿命ではありません。
第一に、給付水準が現行ルールに沿って下がり続けること。これはマクロ経済スライドという2004年のルールが生んでいるもので、法律を変えれば止められます。名目の財源制約はないのですから、下げ続けなければならない財政上の理由はありません。第二に、その調整が基礎年金部分、つまり低年金層に集中していること。調整のかけ方も、基礎年金の底上げも、選び直せます。第三に、将来の高齢者の生活を実際に支える実物供給能力、とりわけ医療・介護の担い手への投資が足りないこと。ここにこそ、インフレという真の制約に照らして正当化される財政支出の出番があります。人を育て、供給能力を厚くする支出は、貨幣を配って終わりの話ではなく、将来の実物の土台をつくる投資です。
だから、「円を発行できるから年金問題はない」で話を終えるわけにはいきません。円を発行できることは、支払停止という偽の問題を退けるだけです。その先に残る三つは、どれも技術的には解けます。それを解けなくしているのは財政の不可能性ではなく、「お金が足りない」という古い貨幣観のほうです。障害はお金ではなく、お金についての思い込みにあります。
冒頭で聞いた「破綻する」という言葉を、支払いの話としてではなく、給付水準と分配と供給の話として置き直したとき、本当に選び直すべきものは初めて名指しできます。現実には、有権者と政治の貨幣観が変わらない限り、出てくるのはその場しのぎの弥縫策にとどまり続けるでしょう。それでも、問題の正体を取り違えないことが、まともな選択の出発点になります。守るべき底をどこに引くか。その一点は、まだ開いたままです。
参考
関連記事
- 「税は財源ではない」とは何を意味し、何を意味しないのか(保険料・租税と政府支出の関係について)
- 日本の部門別収支30年史――誰が黒字で、誰が赤字だったのか(政府債務と民間金融資産の対応について)
外部資料
- ※1 厚生労働省 令和6(2024)年財政検証
- ※2 e-Gov 法令検索 国民年金法(昭和三十四年法律第百四十一号)
- ※3 厚生労働省 令和6年年金制度改正(2025年施行)
- ※4 年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF) 基本ポートフォリオの考え方
- ※5 厚生労働省 令和6(2024)年財政検証結果の概要(PDF)
- ※6 国立社会保障・人口問題研究所 日本の将来推計人口(令和5年推計)
- ※7 総務省統計局 労働力調査 長期時系列データ

