MMT・通貨制度

MMTはインフレを軽視しているのか

max999

「インフレになったら終わりでは」という直感から始める

MMT(現代貨幣理論)の話をすると、たいてい最初に返ってくる反応があります。

「お金をそんなに出して、インフレになったらどうするのか」「結局、刷りすぎたら物価が暴走して終わりではないか」というものです。

これは、とても自然な反応だと思います。私たちは長いあいだ、「国の財布にも限りがある」「使いすぎたら破綻する」という感覚を当たり前として育ってきました。家計でお金を使いすぎれば破綻するのと同じように、国も使いすぎればどこかで行き詰まる——その延長で考えれば、「お金を出し続ける理論」が物価の暴走を軽く見ているように見えるのは、むしろ当然です。

一方で、MMTをある程度理解した人からすると、「MMTがインフレを軽視している」という批判は、少し不思議に聞こえます。MMTはむしろ、財政の歯止めをインフレに置く理論だからです。理解している側には半ば自明なこの点が、世間の感覚とはまったく噛み合っていない。だから批判が繰り返される——この記事は、その噛み合わなさを埋めることを目的にしています。

ですので、この記事では「インフレになったら終わりでは」という直感を、間違いとして切り捨てません。その不安を出発点にして、MMTがインフレをどう扱っているのかを、一段ずつほどいていきます。結論を先に言えば、MMTはインフレを軽視するどころか、財政の制約をインフレの問題として捉え直す理論です。ただし、「自国通貨建てなら破綻しない」という一言だけが独り歩きすると、本当にインフレ軽視に見えてしまう——なぜそう見えるのか、そしてこの記事のような場所がなぜ要るのかも、最後に扱います。

なぜ「MMTはインフレ軽視」と言われるのか

まず、批判する側の言い分を、こちらでていねいに作ってみます。叩くためではなく、どこで誤解が生まれるのかを見るためです。

批判は、おおむね次のような形をとります。

MMTは「自国通貨を発行できる政府は、税収が足りないという理由だけで支払い不能にはならない」と言う。つまり「財源が足りないから支出できない、という制約は本質ではない」と主張する。ところが、お金をいくらでも出せるのなら、出しすぎたときに物価が上がるのは避けられない。財源の制約を外したのなら、その先に待っているインフレの危険を、MMTは正面から語っていないのではないか——。

この批判には、半分もっともなところがあります。実際、MMTを紹介する言葉のなかには「自国通貨建てなら財政破綻しない」という短いフレーズだけが切り取られて広まったものが多く、そこだけ見れば「では歯止めは何もないのか」と感じても無理はありません。

ただ、この批判は一点で前提を取り違えています。MMTが外しているのは「お金が足りるか」という制約です。もう少しかみ砕くと、「政府は、税金や借金でお金を先にかき集めてからでないと支出できない」という、お金の出どころの心配のことです。MMTはこの心配を外しますが、それは「いくら出してもよい」という話ではありません。MMTは制約そのものを消したのではなく、制約の置き場所を移したのです。その移った先が、ほかでもないインフレです。

このすれ違いを解くために、まず「MMTが否定している制約」と「否定していない制約」を分けて整理します。

MMTが否定している制約、否定していない制約

「お金が足りるか」という財政の見方を、MMTは二つに切り分けます。

  • 否定している制約——自国通貨を発行できる政府は、家計のように「先に税収を集め終わらないと円建ての支払いができない」主体ではない。つまり「名目的なお金が足りないから支出できない」という制約は、通貨を発行できる中央政府には当てはまらない。
  • 否定していない制約——では何でも好きなだけ実現できるかというと、そうではない。政府が支出してモノやサービスを買おうとしても、それを供給する人手・設備・資源・輸入が足りなければ、手に入るのは物価の上昇だけになる。

この二つ目が、MMTの言う本当の制約です。「お金が足りるか」ではなく「実物の供給が足りるか」。なぜ通貨を発行できる政府が名目的な支払いで詰まらないのかという仕組みそのものは、MMTとは何か:管理通貨制度から読む政府・税・国債で扱っているので、ここでは深入りしません。大事なのは、その代わりに制約が消えるわけではなく、供給能力という別の形で残る、という点です。

たとえるなら、「財布の中身」を気にするのをやめても、「店の棚に商品が並んでいるか」という制約はそのまま残ります。お金をいくら持っていても、町に売っているパンの数が決まっていれば、みんなが一斉に買おうとすればパンの値段は上がります。MMTが財政について言っているのは、これと同じ構図です。問うべきは「お金を出せるか」ではなく、「何に出して、どこで供給の限界にぶつかるか」だ、ということです。

「税は財源ではない」というMMT周辺のフレーズも、この切り分けの上に立っています。これがなぜ「税は不要」という意味にならないのかは、「税は財源ではない」とは何を意味し、何を意味しないのかで扱っています。

そもそもインフレ制約とは何か

ここで一度、「インフレ」という言葉そのものを整理しておきます。批判のすれ違いの多くは、インフレを一枚岩の「悪いこと」として扱ってしまうところから生まれるからです。

インフレとは、モノやサービスの値段が全体として持続的に上がっていくことです。ここで大事なのは、インフレが起きる原因は一つではない、ということです。原因が違えば、効く対策も変わります。「お金を出したからインフレになる」という単純な一本道ではありません。

そして、MMTが財政の歯止めとして見ているのは、まさにこの「インフレ」です。

ここで一段、間を補っておきます。政府がお金を使うとは、つまるところ、誰かにモノやサービスを作らせ、それを買い上げるということです。橋を架けるのも、保育士を雇うのも、給付金で買い物を促すのも、世の中の人手や設備をその分だけ働きに駆り出します。だから政府が支出を増やすほど、経済が持っている人手や工場は忙しくなっていきます。

最初のうちは、余っている人手や遊んでいた設備が動き出すだけなので、問題は起きません。しかし、みんなが働きづめになり、設備もフル稼働に近づいてくると、もうこれ以上は作れない、という天井に近づきます。MMTの考え方では、この天井——経済の供給能力——を支出が使い切っていくと、どこかでモノやサービスの供給が需要に追いつかなくなり、物価が上がり始めます。この物価上昇こそが、これ以上は出しすぎだ、というサインになる、と考えます。

つまり、MMTにおける財政の制約は「あといくら税収があるか」ではなく「あとどれだけ供給に余裕があるか」です。失業している人や、動いていない工場・設備がたくさんある状態なら、支出を増やしても、その分だけ人やモノが動き出して供給が増えるので、物価はそれほど上がりません。逆に、人手も設備もすでにフル稼働している状態で支出を増やせば、供給は増えず、値段だけが上がります。

この「お金を出せばどこまでインフレになるのか」という関係そのものは、お金を刷ると本当にインフレになるのかでより詳しく扱っています。本記事では、その関係を「財政の歯止め」としてどう使うか、という角度から見ていきます。

需要・供給・輸入の三つのインフレを分ける

インフレの原因を、もう少し具体的に分けてみます。ここを分けずに「インフレ」とひとくくりにすると、議論がかみ合わなくなります。大きく三つに整理します。

  • 需要が強すぎて起きるインフレ——人々や政府がモノを買おうとする力(需要)が、経済が作れる量(供給)を上回ると、値段が上がります。財政支出が直接関わるのは、主にここです。供給に余裕があるうちは穏やかですが、余裕がなくなるほど効きやすくなります。
  • 供給の側がしぼんで起きるインフレ——災害や設備の老朽化、人手不足などで、作れる量そのものが減ると、需要が変わらなくても値段が上がります。これは需要を抑えても解決しにくく、むしろ供給を増やす手当てが要ります。
  • 輸入の値段が上がって起きるインフレ——エネルギーや食料、原材料の多くを輸入に頼っている経済では、為替が円安に振れたり、海外の資源価格が上がったりすると、国内の物価が押し上げられます。これは国内の需要とは別のルートで来ます。

この三つを分けると、「お金を出したからインフレになった」という説明が、いつも正しいわけではないことが見えてきます。たとえば、輸入資源の高騰で起きた物価上昇に対して、「財政支出を減らせば収まる」とは限りません。原因が国内の需要過熱ではなく、海外発の輸入インフレなら、効く手当てが違うからです。

MMTは、この区別を重く見ます。財政の歯止めとしてインフレを見るときも、「どの種類のインフレが、どこで起きているのか」を見ないと、対策を間違える、と考えるからです。為替を経由した輸入インフレが「円の信認」の議論とどう絡むかは、「円の信認」とは何を意味するのかで扱っています。

財政支出は「中身」でインフレ効果が変わる

ここまでで、「同じ金額を出しても、状況によってインフレへの効き方が違う」という話をしてきました。もう一歩進めると、何に支出するかでも、インフレへの効き方は変わります。

ポイントは、支出を「需要を足すだけの支出」と「供給を増やす支出」に分けて考えることです。

たとえば、すでにフル稼働している分野に補助金を配れば、供給は増えないまま需要だけが増え、値段が上がりやすくなります。一方で、人手不足の現場の人材を育てる、生産設備を新しくする、物流の目詰まりを解消する、といった支出は、時間をかけて供給そのものを増やします。供給が増えれば、その分は物価上昇につながりにくくなります。

つまり、財政支出を「インフレを起こすもの」とひとくくりにはできません。同じ「お金を出す」でも、需要だけを足すのか、供給を増やすのかで、物価への跳ね返りは正反対にもなり得ます。

ここから、MMTの含意が一つ出てきます。インフレ対策は「増税」や「支出削減」だけではない、ということです。需要を冷ます方向(増税・支出削減)もあれば、供給を増やす方向(生産能力への投資)もある。MMTは、財政の中身をどう設計するかを、物価安定の手段の一部として捉えます。たとえば「雇用保証」のような制度論も、この延長にあります。これは、職を失った人を政府が一定の賃金で雇い、景気が良くなれば民間に戻っていく、という仕組みです。不況のときは政府の雇用が増え、好況のときは減るので、需要が自動的に調整され、物価の安定につながると考えられています。

主流派の経済学が、物価の安定を主に中央銀行の金融政策(金利の上げ下げなど)に任せるのに対し、MMTは「財政の中身と設計」も物価安定の道具として正面から使う——この力点の違いが、両者の見え方を大きく分けています。「MMTはインフレを気にしているのか」ではなく、「インフレを、どの手段でコントロールしようとしているのか」で比べると、対立点がはっきりします。

よくある反論への回答

ここまでの整理を踏まえて、MMTのインフレ観に向けられがちな反論を、いくつか取り上げます。どれも、もっともな疑問です。

「理屈はそうでも、現実にインフレが起きたら、本当に増税できるのか」

これは、とても重い指摘です。そして、理論の話と、政治の話を分けて答える必要があります。

理論として「インフレが行きすぎたら需要を冷ませばよい」と言うのは簡単です。しかし、現実には、増税も支出削減も政治的に痛みを伴い、すぐには決められません。この「政治的に実行できるのか」という問題は、MMTが理論として正しいかどうかとは別の、本物の難問です。

正直に言えば、ここはMMTにとって弱点になりやすい部分です。だからこそMMTの側は、人間の決断に頼りすぎず、景気に応じて自動的に効く仕組み(好況時には自然に税収が増え、不況時には支出が増えるような制度設計や、雇用保証のような自動調整)を重く見ます。「いざとなったら政治家が止める」という前提だけに寄りかかるのは、MMTの立場からしても危うい、ということです。

「供給能力を超えたかどうかなんて、事前にわかるのか」

わかりにくい、というのが率直な答えです。

経済全体で「あとどれだけ供給に余裕があるか」を正確に測るのは簡単ではありません。需給ギャップのような指標はありますが、推計には幅があり、後から修正もされます。だから、「ここまでなら大丈夫」という線を事前にきっちり引けるわけではありません。

ただ、これはMMTだけの弱点ではなく、あらゆる経済運営につきまとう不確実性です。重要なのは、「正確に測れないから歯止めがない」のではなく、物価や賃金、求人の動きといった実際のサインを見ながら調整していく、という姿勢です。完璧な事前予測ではなく、走りながらの観察と修正に頼る——この点は、金融政策も同じです。

「結局、為替が下がって輸入インフレが来るのではないか」

これは、前の章で挙げた三つ目のインフレ、輸入インフレへの懸念です。

MMTは、この経路を無視しているわけではありません。むしろ、自国通貨を発行できることの強みは「国内の供給能力の範囲で動かせる」ことにあり、輸入に頼る部分は別の制約として残る、と考えます。エネルギーや食料を大きく輸入に頼る経済では、為替の動きや海外価格が物価を左右します。これは財政の「お金が足りるか」とは別ルートの制約であり、ここを軽く見れば、それこそインフレ軽視になります。

だから、「自国通貨建てだから何の問題もない」という言い方は、MMTの立場からしても不正確です。輸入インフレや為替は、供給能力と並ぶ、もう一つの現実の制約として扱う必要があります。

「財源は心配ない」の先を、誰かが語る必要がある

最後に、この「インフレ軽視」という批判がなぜ消えないのかを、別の角度から書いておきたいと思います。

「自国通貨建てなら破綻しない」という一言は、それ自体としては悪いものではありません。むしろ、根拠の薄い財政破綻論に対して、本質的な反論を最短で言い切った、よくできた要約です。文字数の限られた場面で使うこと自体に問題はありません。

問題は、このフレーズが単独で歩き出したときに起きます。「自国通貨建てなら破綻しない」だけが繰り返され、その後ろにあるインフレ制約の説明が抜け落ちると、聞いている側には、本当に歯止めのない理論に見えてしまいます。これは誤解というより、説明の欠落が招いた当然の反応です。

そして厄介なのは、根拠の見えない「正しそう」は、もろいということです。「自国通貨建てなら大丈夫」とだけ言う人が、「ではインフレになったら?」と一突きされて答えに詰まれば、見ている第三者には「やっぱり中身がないんだ」という、逆向きの「正しそう」が残ります。だから、フレーズを運ぶ人が増えること自体は良いのですが、その後ろに戻ってこられる場所がないと、批判一発でひっくり返されてしまいます。

とはいえ、フレーズを使う人全員が、インフレ制約から為替まで完璧に説明できる必要はありません。短く伝える人と、詰めて説明する人で、役割は分かれていてかまわない。大事なのは、運び手が「ではインフレは?」と問われて詰まったときに、その先の答えがちゃんと用意された場所があることです。

この記事は、まさにその「戻ってこられる場所」のつもりで書いています。「お金は出せる」は、MMTの出発点にすぎません。本当に難しくて大事なのは、その先の「何に、どこまで出すか」です。そこを引き受ける場所が一つでもあれば、「自国通貨建てなら破綻しない」という一言は、軽率なスローガンではなく、ちゃんと裏づけのある要約として機能します。

まとめ

「MMTはインフレを軽視しているのか」という問いに、ここまでの整理から答えると、次のようになります。

MMTは、財政の制約を消したのではなく、置き場所を移した理論です。「お金が足りるか」という名目的な制約から、「供給能力を超えないか」という実物の制約へ。そして、その実物の制約が形になって現れるのが、ほかでもないインフレです。だからMMTは、インフレを軽視するどころか、財政の歯止めの中心にインフレを据えています。

その上で、インフレは一枚岩ではありません。需要・供給・輸入という原因の違いを分け、同じ支出でも「需要を足すだけか、供給を増やすか」で効き方が変わることを見れば、「お金を出した=インフレで終わり」という単純な図式が成り立たないことがわかります。

ただし、「自国通貨建てなら大丈夫」という一言だけが単独で歩き出し、その後ろのインフレ制約の説明が抜け落ちると、批判のとおり「軽視」に見えてしまいます。フレーズを短く運ぶ人と、その先を詰めて語る場所と、両方があって初めて、MMTのインフレ観は正確に伝わります。

「インフレになったら終わりでは」という最初の直感は、間違いではありませんでした。むしろ、その直感が指していた不安こそ、MMTが財政の歯止めとして真正面から扱っている当のものです。違っていたのは、歯止めが「お金の量」ではなく「供給とインフレ」にある、という置き場所だけだったのです。

参考

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