経済理論

企業価値の増加は、誰の生活を豊かにしたのか――自社株買い22兆円、実質賃金は4年連続マイナス

max999

五つの場面で見えたものは、どこへ行き着くのか

ベンチャーへの入社から株価まで、会社が大きくなる五つの場面で、誰の取り分がどう決まるのかを一つずつ見てきました。出てきた答えは、毎回同じ形をしています。所有者の取り分は会社全体につく値段に連動し、従業員の取り分は自分一人の労働契約にしか連動しません(第1回第2回第3回第4回前回)。

では、五つの場面を通じて膨らんだ企業価値は、最後に誰の生活を豊かにしたのでしょうか。

この問いは、経営者が強欲かどうかという話とは別です。企業価値が増えたこと自体は事実であって、それだけでは良いことでも悪いことでもありません。評価が分かれるのは、増えた分が実物と分配に変わったのか、それとも金融資産として積み上がっただけなのか、という行き先のほうです。

一社ごとの非対称は、全体でどう出ているのか

一社ごとの契約の形は、全部足し合わせると統計に出ます。

財務省の法人企業統計によれば、2024年度の労働分配率は53.9%でした。人件費を付加価値で割った、法人企業統計の定義による数字です※1。1973年度以来、51年ぶりの低い水準です※2。同じ統計で、企業の利益剰余金は2024年度末に637兆円あまりとなり、過去最高を更新しました。

賃金は費用として先に引かれ、それを超えた分は残余のほうへ積み上がります。この順番がどの会社でも同じなら、利益が大きく伸びた年ほど分配率は下がりやすくなります。ただ、低下のどれだけがこの経路によるものかは、この数字だけでは分けられません。この分解は日本とドイツを比べた記事でも課題として残したままで、本ブログではまだ答えを出せていません。

株主への還元は、翌年度にさらに増えています。上場企業が2025年度に決議した自社株買いの取得枠は22兆3,250億円で、前年度比18%増、5年連続の増加で過去最大でした※3。取得枠は「これだけ買う」と決めた金額の上限であって、実際に買った額ではありません。それでも、その上限を積み増す向きが5年続いていることは、利益を株主還元へ向ける姿勢が強まっていることを示しています。

同じ時期、働く側が受け取る賃金は逆を向いています。厚生労働省の毎月勤労統計をもとにした集計では、2025年の実質賃金指数は前年比マイナス1.3%で、4年連続のマイナスでした※4。名目の賃金は上がっています。物価の上昇のほうが、それを上回ったということです。

内部留保は過去最高、労働分配率は51年ぶりの低さ。翌年度には自社株買いの枠が過去最大になり、実質賃金は4年連続で下がりました。向きは揃っています。一社ごとに見た非対称は、全体の集計でも同じ向きに出ています。

企業価値が増えた会社は、何を動かしたのか

企業価値が増えても、増えた分がどこかの口座へ現金として振り込まれるわけではありません。時価総額は株価に株数を掛けた答えであって、どこかに積まれた残高ではないことは、前回に見たとおりです。増加分の行き先を探しても、行き先はありません。

たどれるのは、その値段が膨らんでいったあいだに会社が何を動かしたかのほうで、動かせるものは三つに分かれます。

一つ目は、実物として残るものです。設備、技術、製品、雇用の数、そして働く人が身につけた技能。どれも、使われているあいだは供給能力そのものです。

二つ目は、分配されるものです。賃金として従業員へ、支払いとして取引先へ、税として国と自治体へ出ていき、それぞれ誰かの所得になります。

三つ目は、金融資産として積まれるだけのものです。手元に残す現預金と有価証券、それに配当と自社株買いがここに入ります。配当と自社株買いは現金が動くので分配のようにも見えますが、届く先は持分を持っている側だけで、実物は増えません。

一つ目と二つ目が増えているなら、企業価値の増加は経世済民と矛盾しません。三つ目だけが増えているなら、新しく何かが生まれたのではなく、実物への請求権が誰のものかを付け替えただけに近くなります。

もっとも、配当や自社株買いで外へ出た資金は、そこで止まるわけではない、という反論があります。受け取った株主が別の投資先へ回せば、その資金は別の会社で設備になります。資本が効率的な使い手のところへ移るとは、そういうことだという見方です。実際にそうなることはあります。ただ、それが起きたかどうかは受け取った側の口座を追わなければ分からず、自社の決算資料からは確かめられません。ここで見ているのは、この会社の単位です。取引の単位で同じ問いを立てたのがM&Aの記事です。

前回のキオクシアを、この三つに並べ直してみます。2026年3月期の営業利益は前期比92.7%増、事業会社キオクシアの従業員の平均給与は16%増で、この給与は二つ目です。会長の報酬は前期の総額2億9,600万円から約15倍になり、増えた40億円あまりの大半が株式報酬でした。株式報酬は二つにまたがります。費用として計上され、受け取った人の所得になる点では二つ目ですが、額を決めたのは株価で、届く先は持分を持つ側です。ベインキャピタルが売り切って確定させた約2.5兆円は、三つのどこにも入りません。会社が向けた先ではなく、買い手からベインへ渡った投資家どうしの移転で、会社の外で確定した株価そのものの取り分です。

では一つ目、設備と技術と雇用はどれだけ増えたのか。ここまで並べた数字のどこにも書かれていません。決算短信の投資の欄と従業員数の推移を開くまで分かりません。数字が大きく報じられる順番と、確かめるべき順番は一致していません。

勤め先の決算資料と賃金規程があれば、この三つの行き先はある程度まで自分で確かめられます。

  • 設備投資と研究開発の額は、利益の伸びに見合って増えたか
  • 従業員一人あたりの賃金は上がったか。その上げ幅は物価の上昇を超えているか
  • 雇用は増えたか。増えた分の中身は正社員か、それとも非正規や外注か
  • 取引先への支払い単価は上がったか、据え置きか
  • 教育と訓練に使う費用と時間は増えたか
  • 配当と自社株買いへ回した額は、いくら増えたか
  • 手元の現預金と有価証券は、いくら増えたか

このうち支払い単価と、教育や訓練にかけた費用と時間は、決算資料には出てきません。社内で見える範囲から見当をつけることになります。それでも、上の五つが動かないまま下の二つだけが増える年が続くなら、その会社の成長は三つ目へ寄っています。

ビジョンは語られ、分配は語られないのはなぜか

私は、他人の数年を自分の持分に変える設計を、何の疑問も持たずに回せることに、ずっと違和感を持ってきました。

この違和感を、その人たちの人柄の問題として書くこともできます。ただ、そう書くと批判は弱くなります。一つは、同じ非対称が、ビジョンを本気で信じている善良な経営者のもとでも同じように生まれることです。違いが出るのは、その非対称をそのまま放置するか、分配の設計で埋めるかのほうです。還元をしぶる経営者の性格として説明すると話を読み違える、と第1回に書いたのは、このことです。もう一つは、人格の問題にすると「その人が入れ替われば直る」話になることです。入れ替わっても、契約と資本構成のほうは手つかずで残ります。

金銭的な動機そのものを責めたいのでもありません。稼ぎたくて起業することは、それ自体では何も悪くありません。動機がどうであれ、誰にいくら配るかを書いた人は、経世済民の側で振る舞ったことになります。逆に、理念をどれだけ純粋に信じていても、何も書かなければ、結果は持分の側に寄ります。

事業をやりたくて起業した人と、持分を持つ側へ移るために起業した人は、外からは見分けがつきません。分かれるのは心の中ではなく、分配の設計のほうです。

理念を掲げること自体は、悪いことではありません。社会を変える、この製品で世の中を良くする。掲げられた理念は人を集め、定時で帰らない働き方を引き出します。ただし、理念に応えて差し出した時間は、賃金契約の側にしか記録されません。持分を渡す取り決めが別にあるのでなければ、理念が引き出した労働は持分では返りません。

当事者意識そのものは、持って働くほうがよいと私も思います。目の前の仕事を自分の判断で良くしようとする働き方は、評価も給料も上げやすくします。ただし、それは賃金契約の中で報われる話です。「自分の会社だと思って働け」は、その先を求めています。法的な所有権を一株も渡さないまま、所有者と同じ働き方を求めているからです。確かめるべきは言葉の熱量ではなく、比喩ではない実際の持分がいくらあるかです(第1回)。下げの局面で先に売って抜ける道が持分の側にしか付いていないことは、前回に見たとおりです。

違和感があるのは、その先です。理念は語られた時点で人を動かしますが、分配は書かれるまで何も動かしません。語る側にとって、理念を詳しくする誘因はあっても、分配を詳しくする誘因はありません。理念は検証できる形になっておらず、分配は書かれた形になっていません。どちらも、あとから確かめられません。

分配を語らないことは、中立ではありません。書かれていなくても賃金が上がることはあります。労働市場が逼迫すれば上がりますし、業績の良い年には賞与も増えます。ただ、それは毎年ゼロから決め直されます。制度として自動で向かうのは持分の側であり、何も決めないという選択は、その向きをそのまま通すことです。

分配は、先に決めておけるのか

効率は市場に任せ、分配は後から税と再分配で直せばよい、という整理があります。先に富ませれば自然に滴り落ちる、と語られたトリクルダウンは、この整理がさらに雑になった形で、後から直す工程さえ省いています。整理の丁寧なほうでも、実務へ下りると効率の側だけが前に出て、分配は政治の宿題として後景へ退きます。その先で何が起きるかはM&Aの記事で書きました。

後回しにしないやり方もあります。SKハイニックスの労使は2025年9月、超過利益分配金の原資を営業利益の10%とし、それまであった基本給1,000%という支給上限を撤廃することで合意しました。支給は全額現金で、うち2割は2年に分けて繰り延べます。この合意を10年間維持することも決めています※5。原資の額が、その年の判断ではなく利益の額から決まる形です。決めてあるのは配り方の式であって、毎年の金額ではありません。

日本の会社もこうすべきだ、とは書きません。労使の関係も業種ごとの利益の振れ方も違い、この形がそのまま移せるかは分かりません。ただ、裁量で決めるか式で決めるかの差は、届く額の差になります。第1回で書いたとおり、賃金規程に算定式まで書いてあれば、その範囲は請求できます。書いていなければ、出るかどうかはその年の判断です。

では、書いてあれば動かないのか。そうでもありません。合意から1年経たない2026年7月の交渉で、会社側は分配金の一定割合を自社株で支給する案を出しました。労組は昨年まとめたばかりの合意を1年で変えるべきではないと反発し、従業員側からは、10年を約束して1年しか守らないのか、という不満が出ています。会社側は、交渉の初期段階で具体化した内容はない、としています。

書いてあっても、変更は提案されます。違うのは、書いてあれば変更が交渉のテーブルに載り、合意と違うと言えることのほうです。書かれていなければ、そもそも何を守れとも言えません。

第1回は、従業員に創業者並みの献身を求めるなら持分をどれだけ渡すべきか、という問いを持ち越しました。ここまで見てきて分かったのは、量を先に決められないということです。決められるのは、増えた分をどの式で分けるかのほうで、式さえ書かれていれば、量は毎年その式が決めます。

自分の時間を、どの資産へ置くのか

では、従業員の側は何ができるのか。手元にあるのは時間で、使い道は三つあります。

一つ目は、決められた時間を働いて給与を受け取る、通常の労働です。追加の時間を出さない選択で、積み上がるのは貯蓄と、仕事の外に使える時間です。

二つ目は、他人の持分価値を高めるための追加労働です。上場を目指す会社で定時を越えて働く時間が、これにあたります。その追加の時間に対して、新しく持分が付くことはありません。持分を持っているなら、それは入社時に決めた分であって、追加で働いた分ではありません。第3回で見たとおり、分かれ目は貢献の量ではなく持株数です。無価値だという意味ではありません。裁量も、経験も、実績も、転職市場でつく値段も、そこから生まれます。ただ、それらは持分ではありません。

三つ目は、自分が所有する小さな事業への追加労働です。ブログでも、作ったものの販売でも、受託でも、顧客と作ったものが自分の側に残る形なら同じです。増えた分は自分の資産になります。

三つ目を勧めているのではありません。小さな事業には、顧客をどう見つけるか、資本をどこから出すか、信用をどう積むかという壁があります。大きくなる保証はなく、続けられる保証もありません。給与のような定期の入金もありません。

問いは「起業すべきか」ではありません。追加の時間を、どの資産へ積むのかです。一つ目を選んで追加の時間を出さないなら、残るのは自分の時間そのものです。二つ目に積めば経歴と経験が残り、三つ目に積めば顧客と作ったものが残ります。どれにも保証はありません。違うのは、残ったものが誰のものになるかです。

経済は、何のためにあるのか

会社が大きくなること自体は、望ましいことです。供給能力が増え、雇用が生まれ、財やサービスが世に出ます。六回かけて見てきて残ったのは、増やしたものを暮らしへ返す道筋が、契約のどこにも書かれていない、という一点です。

このブログの立場であるMMTは、政府の支出を、財源がいくらあるかではなく、動かした実物資源が何に変わったかで評価します。同じ支出でも、供給能力と雇用を増やしたのか、誰かの所得になったのか、金融資産として積まれただけなのか。制約になるのは金額ではなく、インフレという実物の側の限界です。増えた企業価値を実物と分配と金融資産に分けて確かめたのは、国の財政に対して立てるこの問いを、会社の単位へ移すためです。金融的な数字がどれだけ膨らんだかは、それ自体では成果になりません。企業価値も時価総額も、答えではなく、答えを探すための材料の一つです。

勤め先の決算資料には、増えた分がどこへ向かったかが金額で書かれています。設備投資と研究開発、人件費、そして配当と自社株買いと手元の現預金。上場していれば、その金額は誰でも読めます。していなければ、賃金規程と自分の給与明細から見える範囲までです。どちらにしても、確かめる先はチャートではなく、そこに書かれた金額のほうです。

参考

関連記事

外部資料

ABOUT ME
MAX999
MAX999
記事URLをコピーしました