M&Aは価値を生むのか――所有権ゲームと経世済民のあいだ
この記事が問いたいこと
M&Aは、しばしば「成長戦略」として語られます。売上を伸ばす。市場シェアを取る。販売網を広げる。技術を取り込む。企業価値を高める。経営の言葉としては、たしかにそれらしく響きます。
しかし、私はM&Aという行為に、ずっと違和感を持ってきました。
契約が成立した瞬間に、米も、車も、医療サービスも、住宅も増えません。増えないのに、利益は動きます。移転するのは、所有権と、支配権と、将来のキャッシュフローへの請求権です。
この記事は、M&Aそのものを悪だと断じるものではありません。問いたいのは、もっと限定された一点です。
M&Aの実態を、経世済民――日本の、日本人の暮らしを成り立たせるという目的――に照らしたとき、それはどう評価されるのか。
これは、M&A実務の巧拙の話でも、MBA的な資本効率の話でもありません。ビジネスというマネーゲームと、経世済民という目的は、多くの場面で相いれないのではないか、という主張です。そして、その相いれないはずのマネーゲームを「それでよいのだ」と正当化しやすくしているのが、主流派経済学の枠組みではないか、という指摘です。
事実として、M&Aの契約は生産ではない
まず、評価や意見と切り分けて、事実だけを確認します。
M&Aとは、企業、事業、株式、資産、支配権、そして将来収益への請求権の移転です。契約が成立した時点で、財やサービスが物理的に増えるわけではありません。ここまでは、立場を問わず同意できる事実だと思います。
そのうえで、社会にとっての価値が生まれるかどうかは、契約の後に何が起きるかに依存します。
買収後に、生産設備、技術、人員といった経営資源が、以前よりうまく使われるようになれば、実物経済の上で価値が生まれる余地はあります。死蔵されていた技術が世に出る。後継者のいない工場が操業を続ける。こうした場合、M&Aは実物の供給能力を守り、あるいは高めます。
逆に、買収後に起きるのが、価格の引き上げ、賃金の抑制、取引先への圧力、サービス品質の低下、租税回避、政治的影響力の強化であれば、それは社会全体の生産力を高めたのではなく、取り分を移し替えただけに近くなります。
つまり、M&Aの善し悪しは、買収価格や株主リターンだけでは判断できません。判断すべきは、買収の前後で、実物の何がどう変わったのかです。
価値を生むM&Aと、取り分を移すM&A
この区別を、もう少しはっきりさせます。ここからは評価を含みます。
肯定できるM&Aは、確かにあります。後継者不在の中小企業を引き継ぎ、地域の雇用と技術を残すM&A。破綻寸前の会社を再建し、供給網と雇用を守るM&A。技術はあるが売る力のない会社と、売る力はあるが技術の弱い会社が統合し、良い製品を広げるM&A。設備や人材やノウハウの死蔵を避け、実物資源を有効に使うM&A。これらは、経世済民と矛盾しません。
批判の対象は、M&Aそのものではなく、別の種類のM&Aです。売上を買う。将来のキャッシュフローを買う。市場での価格決定力を買う。労働者や取引先への交渉力を買う。あるいは、租税回避や財務操作の器として、政治的影響力の梃子として買う。いずれも、実物経済の改善よりも投資家リターンを優先した買収です。
前者は、実物資源の使われ方を良くします。後者は、実物資源への請求権を、特定の資本の側へ付け替えるだけです。同じ「M&A」という言葉でも、経世済民から見れば、方向が正反対です。
具体的に思い浮かべると、輪郭がはっきりします。自社でものを作る力を持たない会社が、技術を持つ会社を買う。人手を自社の案件に充てるために、労働力を抱える会社を買う。海外に売り込みたいだけで、現地の販路ごと会社を買う。どれも、買った側の現場で新しく生み出されるものは、ほとんど増えません。動いているのは、既存の技術・労働・販路が、誰の請求権になるか、という一点だけです。
なぜマネーゲームに見えるのか
では、後者のようなM&Aは、なぜ「マネーゲーム」に見えるのでしょうか。
売上を「作る」のではなく、売上を「買う」からです。
新しい顧客の困りごとを解いて信用を積むのではなく、すでに誰かが積み上げた顧客関係、ブランド、地域の信用を、丸ごと収益資産として買い取る。そこでは、労働者も、取引先も、顧客も、将来キャッシュフローを生む「資産」として扱われます。
このとき、経営者や投資家が眺めている盤面と、その盤面の上に載せられた人々の生活は、切り離されていきます。買収の巧拙は、シナジーや企業価値という数字で語られ、現場で何が起きるかは、その数字を実現するための調整項になります。
生産を増やしていないのに利益が動く。そして、その利益は、価値を新しく生んだ人ではなく、請求権を握った人のところへ向かう。ここに、私が違和感を持ち続けてきた核心があります。
主流派経済学は、なぜビジネス側に使いやすいのか
ここで、公平を期すために、主流派経済学やMBA的な立場の言い分を、藁人形にせず、最も強い形で紹介します。
主流派の枠組みでは、M&Aは次のように正当化されます。非効率な経営者を規律づける。より能力のある所有者へ資産を移す。規模の経済を実現する。重複部門を整理する。資本配分を効率化する。株主価値を高める。市場の新陳代謝を促す。後継者不在の事業を存続させる。これらは、理論として成り立ちます。資源が無駄に使われている企業に、より上手な経営者が入って立て直すなら、社会にとって良いことでしょう。この部分は、正しく見えます。
問題は、この枠組みが、なぜこれほどビジネス側にとって使いやすいのか、という点です。
理由は、この枠組みが、より自由な競争を基本的に望ましいものとして扱うところにあります。競争が資源を効率的に配分し、非効率な使い手から効率的な使い手へ資産を移す、という見立てです。
ここで一つ、公平のために付け加えておきます。厳密な厚生経済学は、効率の問題と分配の問題を切り離して考えます。競争が効率を高めることと、その結果として誰の取り分が増えるかは、別の問題である。分配に不満があれば、税や再分配で後から直せばよい、という整理です。実際、独占禁止の枠組みや合併審査は、取り分を移すだけの買収を止める側の道具でもあります。ですから、「主流派は格差を肯定している」と決めつけるのは、正確ではありません。
問題は、その「効率と分配は別問題」という切り分けが、通俗的な語り口や実務へ下りてくると、しばしば効率の側だけを前面に押し出す、という点にあります。分配は「あとで政治が直す別の話」として後景へ退く。すると、市場で起きた結果――勝者が大きな取り分を得て、敗者が退場し、格差が広がること――は、さしあたり「自由な競争が生んだ配分」として、そのまま受け入れられていきます。資本を集めていく過程を「効率的な資本配分」「市場による淘汰」となめらかに説明できるこの語彙は、買収する側にとって、これ以上ないほど使いやすいものです。
しかし、ここで一つだけ問う必要があります。
その「効率」は、誰にとっての効率なのか。
株主にとって効率的でも、労働者にとっては賃下げではないか。投資家にとって合理的でも、消費者にとっては値上げではないか。企業価値が上がっても、地域社会にとっては雇用の喪失ではないか。資本配分が効率化しても、民主政治にとってはロビー力の集中ではないか。
「効率と分配は別」という建前では、この分配の不満は、後から政治が直すことになっています。しかし、後回しにされた分配は、本当に直されるのでしょうか。ここが、経世済民との分岐点です。分配を委ねた先の政治そのものが、資本の集中によって捕捉されていくとすれば、後景へ退いた分配は、是正されないまま固定されます。経世済民は、格差の拡大を「競争の結果だから、あとで直せばよい」とは考えません。まず、国民の暮らしが成り立っているかどうかを、競争の結果より先に問うからです。
政治が巻き込まれると何が起きるか
分岐点は、経済の中だけにとどまりません。
資本が集中すると、その資本は、ロビー活動や政治献金、制度形成への関与を通じて、政治に影響を及ぼす力を強めます。すると、税制、規制、労働法制、補助金、金融政策が、公共の目的ではなく、資産価格の維持、大企業の収益、富裕層への税の優遇へと、少しずつ傾いていきます。
このとき、持たざる者ほど不利になります。政治に働きかける資源を持たないからです。
自由な競争の結果として格差が広がるだけなら、まだ「競争のルールの中の出来事」と言えるかもしれません。しかし、勝者が得た力で競争のルールそのものを書き換えられるようになると、それはもう自由な競争ですらありません。マネーゲームに、政治が巻き込まれている状態です。
経世済民の観点から最も警戒すべきなのは、この段階です。国家の貨幣・財政・制度を形づくる力が、国民生活、雇用、供給能力、公共インフラではなく、資本の収益と資産価格へ向けられていく。これは、経世済民の反転です。
経世済民から見たM&A――MMTという補助線
最後に、このブログの立場であるMMTと、この問題をどうつなぐかを整理します。
MMTは、そもそもM&Aの理論ではありません。ですから、「MMTだからM&Aは悪い」という言い方はしません。それは論理の飛躍です。
MMTが与えてくれるのは、経済を見るときの視点です。MMTは、貨幣や財政を、家計簿のような事前の財源制約としてではなく、実物資源、供給能力、雇用、インフレ制約、そして公共目的との関係で見ます。貨幣そのものが目的なのではなく、貨幣制度を通じて、実物資源と労働と供給能力を、国民生活のためにどう動員し配分するかが問われます。この経済観は、経世済民という目的と、まっすぐつながります。
この視点に立つと、M&Aを評価する問いは、一つに絞られます。
その取引は、実物資源をより良く使うことにつながるのか。それとも、実物への請求権を握り直すだけなのか。
前者であれば、金融取引にも意味があります。後者であれば、金融市場の上で評価額がどれだけ膨らもうと、実物との間には何も生まれていません。数字の上の価値と、暮らしを支える実物とが、そこで乖離します。
M&Aという行為を、成長戦略という数字の話から、実物と生活の話へ引き戻すこと。それが、経世済民の観点からこのテーマを見るということです。
まとめ
同じM&Aでも、実物資源をより良く使う方向に働くのか、既存の請求権を握り直すだけなのか。経世済民から見た評価は、この一点で分かれます。前者に資するM&Aは、経世済民と矛盾しません。しかし、売上やシェアや価格決定力、労働や取引先への交渉力、政治的影響力を買うM&Aは、生産ではなく請求権の再配分であり、それが政治を巻き込むとき、経済は経世済民から遠ざかります。
そして、その請求権の移転を「自由な競争の結果」としてなめらかに語れてしまうところに、主流派的な経済観の使いやすさがあります。効率を前面に置き、そこで広がる格差を「分配はあとで直す別問題」として後景へ送る限り、ビジネス側にとって、これほど都合の良い語彙はありません。
経済は、マネーゲームではありません。人々の暮らしを成り立たせるための制度です。成長戦略としてのM&Aを無条件に称賛する言説には、経世済民の観点から、はっきりと距離を置く必要があると考えます。

